祖先

安土桃山時代 寺西治兵衛秀則

寺西紺屋三郎右衛門の租、寺西主馬伊安の義父。尾張国荒子の出身。本国は下総の国、千葉石見守。
元亀2年(1571) 信長の命により、江州(滋賀県南部)石部城主となる。
秀則の弟 清左衛門之政は、浅野長政に仕え、子孫は安芸広島藩士となったが、本能寺の変(1582)の後、 秀則は前田右馬(前田利家の伯父)の娘を娶り、利家の妹を妻とした弟 寺西九兵衛と共に、 前田利家(高徳公)に仕える(若狭を含め5千石)
秀則は、秀吉認可の茶人でもあり、号を宗與と称した。
娘の婿養子として寺西主馬伊安を迎える。慶長16年(1611)没

江戸時代初期 寺西主馬伊安

紺屋三郎右衛門の租。寺西治兵衛秀則(宗與)の婿養子で、鶴見左門の娘を後妻とする。 大小将番頭、後に物頭にて定番御馬廻頭となる(900石)。 万治3年(1660)没

寺西 孫市新知行500石御先筒頭。寛文10年(1670)没
寺西 五郎左衛門伊清幼名 彦右衛門。孫市より150石の配分を受けるが、早逝
寺西 又八郎加増80石 計230石 享保5年(1720)没
寺西 新八郎正信享保9年(1724) 櫻田附御用人となり、加増50石 計280石。延享2年(1745)74歳で没
寺西 清大夫伊教服部久左衛門養女を妻とし、享保9年(1724) 新番に。元文4年(1739)40歳で没
寺西 藤右衛門正盛幼名 勘十郎勝左衛門。大小将 280石。宝暦9年(1759)表小将に。明和1年(1764)31歳で没
寺西 弥右衛門正信大小将 天明7年(1787)横目 文化13年(1816)没

紺屋としてのはじまり

寺西 新八篤成(初代)

寺西 治兵衛秀則から9代目。
文政1年(1818) 御馬廻(280石) 後に絵師となる
元は加賀藩の染の仕事を発注する側の武士であったが、片町紺屋治右衛門、千日町紺屋長兵衛 との親交のもと、作る側に転向し、前田家を始め重臣の染の御用を承る紺屋を創業
安政年間(1854~1859)頃(詳細不詳) 没。

2代~4代(江戸時代)

2代紺屋三郎右衛門没年等詳細は不詳。
3代紺屋三郎右衛門紺屋三郎右衛門、親戚の紺屋長兵衛、紺屋冶右衛門の指導を受け、紺屋三郎右衛門を継承。
文政11年(1828) 公儀町(高儀町)の屋敷の隣(元車町)で、染め工場を開業
苗字帯刀を許された、大規模な加賀藩ご用紺屋となる。
表紺屋 (手描き友禅染)として、多数の職人や用心棒もいたという。
明治13年(1869)没 (生年不詳)
4代紺屋三郎右衛門(紺三) 幼名太三郎。明治に入り、屋号を紺三とする。天保13年(1842年)生まれ。
明治36年(1903) 没、59歳

近代~現代

5代紺屋三郎右衛門(紺三)

幼名半三郎。明治14年(1881年)生まれ。昭和16年(1941)没、60歳。
本業の表紺屋(手描き友禅染色)のほか、プリント染色を始める。 
多くの模様師、染色職人を育成。明治末、松任町博労町(現白山市)に移転

6代紺屋三郎右衛門(紺三)

幼名太一。大正2年(1913) 松任町博労町(現白山市)生れ。
昭和 5年 京都染匠工場、伊勢丹図案部、等で修行。日本画院展入選。 昭和15年には(1840)満州中国徴兵されるが、昭和21年(1946)に復員。
昭和38年、松任博労町より金沢長町に移転し、昭和45年に加賀友禅染色団地開業と共に、工場を移転。 
県伝統産業功労賞受賞(昭和57年)、伝統工芸士(昭和63年)、 勲六等瑞宝章受章(平成13年)を受賞。  

妻 照子(西本の娘)は、 金沢第二高女卒後、絵が好きで紺屋に嫁ぎ、 
戦時中は、職人を使い紺屋(友禅染)を営業、戦後、誂え友禅の図案・デザインを統括

(7代紺屋)寺西一紘(いっこう)

6代紺屋三郎右衛門(紺三)の長子。昭和15年金沢市生まれ。現本名は寺西一紘(かつひろ)。
幼き頃より染元家業を手伝うが、大学卒業後、東京の企業に勤める。
昭和47年に金沢に戻り、染元千紅を継承。昭和48年に(株)加賀友禅工芸会を設立。